忘却を恐れて刻んでしまいたくなる
030:貴方のことが思い出になってゆくことに耐え切れず
国は落ち着きを取り戻しつつある。藤堂の多忙さも薄れて休みが取れた。手を入れない庭で柄にもなく草取りや剪定を繰り返す。喬木の細い枝はいつの間にか幹になっており鋸で切断した。時折歩み離れて形を確認する。往来や塀をはみだす枝葉はばっさりと切り落とす。迷惑になっては困るのでそこに美意識は盛り込まない。剪定した枝を折りまとめて紐で縛り上げる。抜いた雑草も袋にぎゅうぎゅう詰める。こうした植物専用のごみ袋があることをご近所から教わって購入した。だいぶ制度が変わったからねぇ、ちゃんと分別しないとおいて行かれちゃうからご注意なさいな。男の独り身であることを知る馴染みの小母さんからの助言だ。
日中の労働の汗を流し、濡れ髪のまま縁側へ出る。そう言えば少し髪が伸びたように思う。藤堂は縁側の柱へ背を預けると片膝だけ立て、もう片方の脚は沓脱ぎへ放った。湯でふやけた皮膚には沓脱ぎの石のざらつきが殊更固く感じられた。ゴリゴリとやっているとまるでおろし金ですり下ろしているようだと笑った。昼間の労働の成果か、多少は見られる庭になった。両親が健在であった頃は馴染みの庭師もいたようだが藤堂一人になってからは疎遠だ。藤堂自身がそもそも家を空けることも多く、連絡がつかずに自然と互いに縁が薄れていった。藤堂は虚ろな眼差しを奥の間へ向けた。仏間には両親から継いだ仏壇がある。両親や誰のものかも判らない最初からある継いだ位牌のほかに、藤堂は朝比奈や卜部、仙波の位牌も引き取った。遺族に連絡がつかなかったものもいればいまさら困るから処分してほしいと門前払いを食ったこともある。藤堂たちの行動はけして褒められるものばかりではないから当然の反応でもある。忘れてたのに思い出させないで。吐き捨てるようにつぶやかれた一言と帰り処を失くした位牌を抱えて藤堂はとぼとぼ歩いた。交通機関を何本もやり過ごし、最後に乗った車内の揺れに身を任せながら、私が最後まで面倒を見よう、私などですまぬ、と藤堂は祈りながら詫びた。結果として四聖剣の位牌は藤堂宅の仏壇におさまっている。唯一生き残ってくれた千葉とも交流も絶えてはいない。女性高官として忙しいようで季節ごとの挨拶状や進物がこまめに届く。そのたびに藤堂は礼状と気を使う必要はなく私のことは忘れなさいと言葉を結んだ。時代は新しい。遺物のような藤堂にこだわっていては見える道も見えづらかろうと藤堂は思っている。
仏壇の間が暗い。裏手に井戸を備える藤堂の私邸はどこかしっとりとした空気を纏う。怪談話をやれば誰か一人が冷たい一雫をうなじに受けて悲鳴を上げる。藤堂の隣や腕を陣取る朝比奈の衿内へ、卜部が汗をかいたコップをあてがうのが正体だ。大抵後で二人して取っ組みあう。千葉は下らんと言って関わらず、仙波は子供は無邪気でいいですなぁと取り合わぬ。藤堂だけがおろおろして、そんな藤堂を見て卜部と朝比奈が矛を収める。それが定番だった。それも全て思い出だ。卜部が逝った。仙波が逝った。朝比奈が、逝った。柱へ預けていた頭がごち、と角に当たって音をさせる。うなじへ張り付いた髪先から伝う雫は喉仏を滑り鎖骨のくぼみへ溜まる。飛白の単衣の衿が濡れていく。傷むと思うが面倒がって藤堂はドライヤーを使わない。濡れ髪をそのまま自然乾燥させてしまう。そう言えば朝比奈はドライヤーとブラシで念入りに髪の跳ねや滑りを整えていた。これも想いでだ。あぁ、駄目だ、と思う。
一人住まいのわびしい夜を狙って人でなしは現われる。門の外、庭、軒先。静寂は好からぬものを呼びこむ予兆だ。だが藤堂はその人でなしこそ現われて欲しかった。
「しょう、ご」
指の脂はおろか指紋一つない硝子の丸眼鏡がユーモラスで、朝比奈の人懐っこさがよく判った。短い暗緑色の髪はミリの単位で散髪にこだわる。まだまだ小柄でひょろひょろとした、おおよそ軍属とは思えない肌の白さだった。いいとこのお坊ちゃんが、とは朝比奈に投げつけられる悪口の定番だ。朝比奈は育ちよく見られた。多少悪ぶって見せても、路地裏などへ行ったりはしない。軽薄に見えるのにそういった堅実で生真面目な面があった。藤堂の眇めた目が湯上りの所為か湿気の所為か、潤みきった灰蒼は水輪のように波紋を帯びる。
「省悟」
足がなくてもいいから私の目の前に来てはくれないだろうか
藤堂は玄関先の麻幹の燃え屑を見つめた。盆の迎え火をたいた。燐のように蒼白く燃えたり橙に色を変えたりそれは藤堂の不安定さを示すように移ろった。黒く炭化するまで藤堂は玄関先にしゃがんでいた。その後に湯を使った。
藤堂の虚ろな眼差しは移ろって天袋へ向かう。しばらく睨みつけるように眺めていたがついと立ち上がる。ひたひたと足裏が貼りつく湿気を感じながら洗面器へ水を張る。その洗面器を縁側へ置き、隣に救急箱を備える。迷った末だが必要かと思ったのだ。そののち、天袋と対峙する。藤堂は長身であるから爪先立てば何とか手が届く。ごそごそと取り出したのは桐箱だ。正座をして箱の蓋をあけて袱紗を開いていく。懐剣だ。藤堂の軍属祝いにもらったものかもしれないし前々から家にあるものかもしれない。手入れこそ頻繁にしていなかったせいか少々保存状態は悪い。ザラリと抜いた刀身からはらはらと埃とも錆ともつかない黒い粉が降る。だがこれでいい。藤堂の口の端が吊りあがる。綺麗な切れ味の刀傷はあとかたもなく消えてしまう。それでは目的が達せない。
藤堂は懐剣だけを握りしめて縁側へにじりよるようにして戻った。藤堂の接近で洗面器の水面はわずかな波紋に揺れていた。月光がさして蜜色に輝く。藤堂は深く空気を吸って呼吸を整える。端座して背を正し、ゆっくりとした呼吸で腹に気を溜める。情報が古く薄れていくなら更新すればよいだけだ。どうしてそれに気付かなかったのか。藤堂は己を思い切り嘲り笑った。
覚悟
懐剣の切っ先を藤堂は右眉の上に定めた。眉上から頬骨へ。躊躇してはならない。一息に。片目を失くしても構わない。己が忘れてしまうならせめて体に。深く、刺せ。藤堂は額とこめかみの間に切っ先のめり込む感触を感じた。痛みはない。そのまま一気に引き下ろす。それでいい。それだけだ。な、のに。
「何やってるんですかッ!」
甲高い怒声と同時に手首を掴みあげられた。驚いた藤堂の動きが止まる。ずぬる、と切っ先が引き抜かれて数センチの切り傷からどっと鮮血が溢れた。顔面は血管も多く通っているから出血すると大惨事になることが多い。手首を掴まれたままの藤堂はその手首から目線を移ろわせて目を見開く。
暗緑色の短髪と勝気で理髪そうな双眸。丸い眼鏡。文官のように白い肌は仄白く透けて発光している。脚元は透けてない。爪先がない。
「鏡志朗さん、オレはあんたのことぶん殴りたくてしょうがないよ」
触れられるのかと藤堂は子供のように手を伸ばす。ひたり、と朝比奈の頬に触れた。冷たい。生命の終わった直後の血の引いていく冷たさではなく、その後の腐乱の火照りを終えて冷めていくばかりの冷たさだ。藤堂の手首を掴まれて離れない。
「手を離せ、朝比奈」
「さっきは省悟って呼んでくれたのに。嫌です、藤堂さん。藤堂さん、顔に傷をつけるつもりなんでしょう、オレと同じこの傷を」
その通りであるから藤堂は反論も弁護もしない。
「どうしてそんなことするんですか、本気で怒りますよ。だからほらこうして地獄から舞い戻って来ちゃった。迎え火をたいてくれたから嬉しくなって帰ってきてこれじゃあ怒ったり泣いたりしたって赦されますよね」
つけつけとした物言いと口調は変わっていない。懐かしい。
唇が震えるのを噛んで堪える。眇めて落涙しそうになる双眸を必死に開いて堪える。
「鏡志朗さん、ほらもうこんなもの、手を放して。止めましょう、血が出てます。それだけでオレの方が痛いです」
眉上の傷は案外深く滝のように流れをつくって垂れた。眦に吸いこまれてから頬の膨らみを撫でるように滑り落ちていく血涙。からからん、と懐剣が藤堂の手を離れた。へたり込む藤堂に朝比奈が視線を合わせるように膝を折る。足先がないから長身の藤堂と目線がちょうど合う。
「ねぇどうしてこんなことしたの。しようとするの。あなたが傷つくの、オレが一番嫌いだって知ってるでしょう」
藤堂は何も言わない。全て私の落ち度です。藤堂はいつもそう言って口を拭ってきた。裏切り者を始末した時も。それが同じ釜の飯を食った仲間であったとしても。味方が死ねばそういう。諜報部員を始末した時もそういった。ぶわぁッと朝比奈の周りを怒りの闘気が包む。冷たい怒りは皮膚へ無数に突き刺さる針のようだ。藤堂は体中に針を打ちこまれたように感じながら微動だにしない。痛みさえ、今の藤堂には遠かった。
体の震えに藤堂の髪先から滴が垂れた。洗面器へ張った水へ落ちた雫が水輪を生む。朝比奈の指先が流れる血を拭う。だがすぐにスゥッと突き抜けて指で拭われた血は洗面器に垂れた。
「赦せなかった」
「鏡志朗」
朝比奈は藤堂の言わんとすることを悟ったように笑んだ。それは嬉しいような困ったような、それでもやはり面映ゆい温かみを帯びた笑みだった。
「私はお前を忘れてしまうことが赦せない! お前が思い出になってしまうことを、お前が赦してくれても私は私を赦せないッ!」
添い遂げようと契った仲ではない。同性同士である。子も成せない。まして互いに軍属であればいつ死んでもおかしくなかった。そんな刹那の、人の一生が一瞬で終わる世界での交わりだった。だから。だから――
「藤堂さん、オレはあなたがオレを忘れても怒らないよ?」
膝を抱えるように屈む朝比奈の足先はない。それが現実。朝比奈は明らかに藤堂の恐慌を悟って信念を曲げている。好きあった同士であれば忘れてほしくないのが道理だ。その朝比奈の譲歩が、藤堂にはこたえた。
「う…ッぅわぁぁあ゛ぁぁあ゛ぁぁあ!!」
払った腕が洗面器をひっくり返す。畳の上へ薄い桜色の水が広がった。朝比奈は何も言わない。
「ああぁ゛ッぁあぁあああ゛あ゛ぁッッ!!!」
藤堂の慟哭だった。藤堂の興奮で血流は激しく流動した。溢れる血が目に入る。瞬くたびに視界が紅く染まり、畳にはぽたりぽたりと紅い華が咲いた。鬱陶しくなって乱暴に拭う。それでも流血は止まらない。ごしごしと目を擦るうちに朝比奈の姿が不明瞭になっていく。藤堂は懐剣を取った。それを大腿部へ突きさした。ずぶぶ、と肉が裂ける感触と異物の入りこむ感覚。ごぼりと血があふれて単衣の裾を紅く染めていく。藤堂は体中のありとあらゆる場所を切りつけ突き刺し、引き裂いた。自傷が終わったのは単に藤堂の腕がつかれたからだ。皮膚を切り肉を裂くのは案外力のいるものだ。辺りは血みどろで血の池が至る所に散乱していた。単衣はすっかり深紅に染まってしっとりと藤堂の肌へ張り付いた。
「鏡志朗さん。オレと同じ傷を負いたいって、言ってくれるのすごく嬉しいよ。でもそれ、オレは嫌なんだ。あなたが言ってくれたたった一つの我儘だけど、聞いてあげられなくてごめんね」
朝比奈の姿がふぅとかき消える。同時に藤堂の意識もパンと弾けて失神した。どさ、と仰向けに倒れ込む藤堂の裾が割れて覗く大腿部は紅い布でも巻いたように深紅に染まっている。それでいて肉欲をそそるだけの魅力を有していた。流血と言う背徳を帯びた藤堂の艶めかしい姿に朝比奈は目を眇めてから霧のように消えた。
「鏡志朗さん、ありがとう、でもごめんね。オレ、あなたが好きなんだ、愛してる。だけど縛りつけようとは思わないよ。あなたの経験の一つとして欠片でいいから。それだけは、赦して」
ぱち、と藤堂の灰蒼の双眸が見開かれた。痛みがない。眉上の傷はすでにふさがりかけて新しい肉の感触がした。突き刺した懐剣もなく大腿部も血まみれになったはずの体も綺麗なものだ。
「なぜ…」
だっと藤堂の脚が畳を蹴る。ひっくり返った洗面器の桜色はそのままなのに。仏壇の位牌を収めている場所を開く。までもなかった。ぱっきりと折れて切っ先や刃の部分は激しい錆と刃毀れの、真っ二つになった懐剣。
「省悟!」
朝比奈省悟の省の字を取った位牌だけが。ズタズタに切り裂かれていた。
「…――ッ…うぅ…――…!」
錆て折れた懐剣でも藤堂の肉体の損壊は可能だろう。だがそれは身代わりになった朝比奈をないがしろにする行為でもある。それだけは、出来なかった。
藤堂は送り火を焚いた。玄関先で焚きながら卜部や仙波の位牌まで引っ張り出して朝比奈のそれと並べる。
「皆、来てくれていたのだろうか。心配させていたらすまんな、わたしはもう、」
大丈夫だから
透明な雫がぱたりと頤から滴り落ちた。
《了》